フェイクニュースやヘイトスピーチなどは、言論の自由の範囲内でしょうか、それとも、範囲外でしょうか?どこまでが良くて、どこに対して規制を設ける(もしくは設けない)べきだと思いますか?
何等かの被害があった場合は罪に問われることもある。未然に防ぐには表現される場所の協力が必要ですよねー
それらの言説がどの程度悪質だったのかによって、どの程度言論の自由から逸脱しているか判断されるべきなんでしょうけど、
「これこそが境界線である」と決めることはほとんど不可能だと思います。
ある特定の言論が特定の個人、集団に対してどれほど悪影響を及ぼしているのか、あるいは及ぼしうるのか可視化、予想することが困難だと思います。
フェイクニュースやヘイトスピーチを流したことで、それがただの悪ふざけで終わるパターンもあると思うし、
あるいは逆に極端なパターンだと、ミャンマーの少数民族のロヒンギャに対する虐殺に関して、フェイスブックからのヘイトスピーチが発端になった
と言われています。後者の場面は誰もが認めるレベルで言論の自由の範疇を超えていると思います。
悪意を持って行った言論がほとんど何も影響力を持たない場合もあるだろうし、持つ場合もあると思います。
悪意も持たないで行った悪ふざけがほとんど何も影響力を持たない場合もあるだろうし、持つ場合もあると思います。
後は何だろうな、成田悠輔氏が発言した「高齢者は集団自決するべき」という発言が少なくとも自分が見たところではあんまり炎上しなかったように
見えたのに対して(後に海外メディアに拾われて炎上してたっぽい)
たぬかな氏が発言した「(身長が)170ないと、正直人権無いんで」という発言は結構炎上していたのを見ると、
その発言によって不快感を感じている人がどの程度の数多いのかによって炎上確率の係数みたいなものが上がるように思います。
多分これは高齢者の人たちはネットを見る人の割合が少ないことが影響して炎上確率の係数が若干弱かったんじゃないかなと思う。
発言のライン超えてる度で比較したら上記二つの発言ってどっちも同じくらいヤバいと思うですけどね。
あとは「美少女、美青年スマホゲーのCMでお茶の間が凍り付いた」みたいなことが話題になった話が10年くらい前によく聞いたように思う。
自分は10年以上テレビを見ていないんでよく分からないんですが、多分今でもそういうCMって流れてるんだと思います。
電車の駅でもそのような種類の広告ってよく見るんですけど、確かある程度の数の女性から顰蹙を買っているという意見は見ましたね。
迷惑している人の声と数が大きくなるなら、もしかしたらそのような種類の広告って禁止されてしまうのかもしれません。
結構昔はLGBTをからかうような文化って日本にはありましたけど、今は(場所にもよるけど)なかなかできませんよね。
過去に普通にまかり通っていた文化に対して、見えないところで迷惑している声なき声って結構あると思います。
それは現代のあらゆる文化でも同じだと思います。
もし悪ふざけしたかったら、あんまり人が見てないところでやった方がいいかもしれません。
あとはヘイトスピーチを行う主体、個人、団体が、どの程度の影響力を持っているかによって責任の度合いも変わってくるでしょう。
同じような内容でも、有名人と一般人で比較したら影響力が違いますね。
言論の自由が、人権を保障するものであるなら、人権を侵害するようなヘイトスピーチは、認められないと思う
ヘイトスピーチを良しとする人たちの多くは、人権意識がないと言えるだろう。なぜなら、特定の人種を差別しているわけだから。それなのに、表現の自由は認められるべき、と言うのは、矛盾している。ヘイトスピーチすること自体が、人権を侵害しているものなのに、なぜ、その人権を理由に、ヘイトスピーチを正当化できると考えられるのか。以上が、個人的な意見です。
なるほど。いくつか疑問点があります。
あなたは、ヘイトスピーチが、「言論の自由がさらに規制されることにつながる恐れがある」と言いますが、ヘイトスピーチによって、特性の人種に対する差別が容認されるような社会になることを、恐れてはいないのでしょうか?
「政府は真に多様性を尊重し自由を守るために価値観を押し付けるべきではない」と言いますが、特定の人種を根拠もなく、謗ることは、尊重と言えるのでしょうか?
「表現の自由を擁護する人々を一つのラベルに括ることで差別している」と言いますが、それでは、特定の人種に対する差別である、ヘイトスピーチを容認することと、人間は平等に尊厳を持ち、人種によって差はないという人権的な考えを、併せ持つことの矛盾を、どのように説明されるのでしょうか?
これはヘイトスピーチである、というマジョリティの価値観をマイノリティに押し付けることは、正当化されないと思います。人々には、特定の人種を差別する権利があると思います。そこは思想の自由であり、信条の自由です。差別はするべきではないと僕は個人的には思います。しかし、国家は道徳的な価値観を押し付けるべきではないと思いませんか?ヘイトスピーチというのは曖昧な概念で、スリッパリースロープと言って言論の自由がさらに規制されることにつながる恐れがあると思います。科学的な発見や専門家の見解までもが自己規制される(セルフセンサーシップ)可能性があり、ヘイトスピーチは規制されるべきではないと思います。ヘイトスピーチを良しとしているのではなく、政府は真に多様性を尊重し自由を守るために価値観を押し付けるべきではないと考えているだけです。さらに、ヘイトスピーチを良しとする人たちの多くは人権意識がないと言えるだろう、なぜなら特定の人種を差別しているわけだから、という論法は危険を孕み、表現の自由を擁護する人々を一つのラベルに括ることで差別しているとも言えます。以上が、僕の個人的な意見です。
あとはヘイトスピーチを行う主体、個人、団体が、どの程度の影響力を持っているかによって責任の度合いも変わってくるでしょう。
同じような内容でも、有名人と一般人で比較したら影響力が違いますね。
あとは「美少女、美青年スマホゲーのCMでお茶の間が凍り付いた」みたいなことが話題になった話が10年くらい前によく聞いたように思う。
自分は10年以上テレビを見ていないんでよく分からないんですが、多分今でもそういうCMって流れてるんだと思います。
電車の駅でもそのような種類の広告ってよく見るんですけど、確かある程度の数の女性から顰蹙を買っているという意見は見ましたね。
迷惑している人の声と数が大きくなるなら、もしかしたらそのような種類の広告って禁止されてしまうのかもしれません。
結構昔はLGBTをからかうような文化って日本にはありましたけど、今は(場所にもよるけど)なかなかできませんよね。
過去に普通にまかり通っていた文化に対して、見えないところで迷惑している声なき声って結構あると思います。
それは現代のあらゆる文化でも同じだと思います。
もし悪ふざけしたかったら、あんまり人が見てないところでやった方がいいかもしれません。
後は何だろうな、成田悠輔氏が発言した「高齢者は集団自決するべき」という発言が少なくとも自分が見たところではあんまり炎上しなかったように
見えたのに対して(後に海外メディアに拾われて炎上してたっぽい)
たぬかな氏が発言した「(身長が)170ないと、正直人権無いんで」という発言は結構炎上していたのを見ると、
その発言によって不快感を感じている人がどの程度の数多いのかによって炎上確率の係数みたいなものが上がるように思います。
多分これは高齢者の人たちはネットを見る人の割合が少ないことが影響して炎上確率の係数が若干弱かったんじゃないかなと思う。
発言のライン超えてる度で比較したら上記二つの発言ってどっちも同じくらいヤバいと思うですけどね。
それらの言説がどの程度悪質だったのかによって、どの程度言論の自由から逸脱しているか判断されるべきなんでしょうけど、
「これこそが境界線である」と決めることはほとんど不可能だと思います。
ある特定の言論が特定の個人、集団に対してどれほど悪影響を及ぼしているのか、あるいは及ぼしうるのか可視化、予想することが困難だと思います。
フェイクニュースやヘイトスピーチを流したことで、それがただの悪ふざけで終わるパターンもあると思うし、
あるいは逆に極端なパターンだと、ミャンマーの少数民族のロヒンギャに対する虐殺に関して、フェイスブックからのヘイトスピーチが発端になった
と言われています。後者の場面は誰もが認めるレベルで言論の自由の範疇を超えていると思います。
悪意を持って行った言論がほとんど何も影響力を持たない場合もあるだろうし、持つ場合もあると思います。
悪意も持たないで行った悪ふざけがほとんど何も影響力を持たない場合もあるだろうし、持つ場合もあると思います。
なるほど。いくつか疑問点があります。
あなたは、ヘイトスピーチが、「言論の自由がさらに規制されることにつながる恐れがある」と言いますが、ヘイトスピーチによって、特性の人種に対する差別が容認されるような社会になることを、恐れてはいないのでしょうか?
「政府は真に多様性を尊重し自由を守るために価値観を押し付けるべきではない」と言いますが、特定の人種を根拠もなく、謗ることは、尊重と言えるのでしょうか?
「表現の自由を擁護する人々を一つのラベルに括ることで差別している」と言いますが、それでは、特定の人種に対する差別である、ヘイトスピーチを容認することと、人間は平等に尊厳を持ち、人種によって差はないという人権的な考えを、併せ持つことの矛盾を、どのように説明されるのでしょうか?
これはヘイトスピーチである、というマジョリティの価値観をマイノリティに押し付けることは、正当化されないと思います。人々には、特定の人種を差別する権利があると思います。そこは思想の自由であり、信条の自由です。差別はするべきではないと僕は個人的には思います。しかし、国家は道徳的な価値観を押し付けるべきではないと思いませんか?ヘイトスピーチというのは曖昧な概念で、スリッパリースロープと言って言論の自由がさらに規制されることにつながる恐れがあると思います。科学的な発見や専門家の見解までもが自己規制される(セルフセンサーシップ)可能性があり、ヘイトスピーチは規制されるべきではないと思います。ヘイトスピーチを良しとしているのではなく、政府は真に多様性を尊重し自由を守るために価値観を押し付けるべきではないと考えているだけです。さらに、ヘイトスピーチを良しとする人たちの多くは人権意識がないと言えるだろう、なぜなら特定の人種を差別しているわけだから、という論法は危険を孕み、表現の自由を擁護する人々を一つのラベルに括ることで差別しているとも言えます。以上が、僕の個人的な意見です。
ヘイトスピーチを良しとする人たちの多くは、人権意識がないと言えるだろう。なぜなら、特定の人種を差別しているわけだから。それなのに、表現の自由は認められるべき、と言うのは、矛盾している。ヘイトスピーチすること自体が、人権を侵害しているものなのに、なぜ、その人権を理由に、ヘイトスピーチを正当化できると考えられるのか。以上が、個人的な意見です。
言論の自由が、人権を保障するものであるなら、人権を侵害するようなヘイトスピーチは、認められないと思う
何等かの被害があった場合は罪に問われることもある。未然に防ぐには表現される場所の協力が必要ですよねー