世では、既存の教育に違和感を覚える人もいるが、果たしてそれは正しい違和感なのかそうでないのか...これからの社会に期待する我々だが、どのように発展してくか・何故それが必要なのかなど議論してもらって構わない。
ちなみに、自身は人柄がある程度整っている人は、「気遣い」や「気配り・お礼・謝罪・」ができる人だと思っている。だから、人柄は「先天的」なものではなく、「後天的」に変えられる「能力」や「技術」なのではないかと思う。 そういった面で、君たちはどう思うかと思い投稿した。
"過度な発言はお控えください” このルールを守れば誰がどのように語っても構わない。それでは楽しんで
返信用です。
よく聞く例として「看護師は性格がキツイ人が多い」って話が出るんですけど、
実際医療関係従事者の人たちの話を聞いていると、もちろん個人差もあると思いますが、
実際に性格がキツイ人が多い傾向があると言われることが多いですね。
ただ、これはよく考えてみると不自然なことではないと思います。
看護師の仕事ってちょっとしたミスで患者さんの命に関わるような事態が発生してしまう可能性もあるし、
それだけ緊張感を持った環境で仕事をしていたら、誰だってピリピリするのは自然なことだと思います。
そして、現場の緊張感を高めるためには同僚や上司部下の関係において、他者に厳しい指摘を
したり、されたり、言いたくはないけど言わなきゃいけないことを言ったり、言われたりしなきゃ
いけない環境で仕事をしているわけですから、ある程度キツイ性格特性を持った人や、
元々そうではなかったけど、仕事に従事していくうちにそのような性格になってしまった人たちが
適応しやすい環境なんだと思います。優しい人には務めるのが難しいのだと思う。
逆に、これは結構イメージで語るんですけど、カウンセラー/セラピストといった仕事は
一般的に言うところの「優しい人」が適性がある仕事なのだと思う。
認知的/情緒的、どちらの共感能力も求められていると思うし、
こちらは特に仕事に関して患者さんに対し「キツイことを言う」ということは、
状況にもよるでしょうけど求められることは少ないでしょうし、
優しくない人には務まりにくい仕事なんじゃないかと思う。
このように考えると、「能力を構成する要素の一つに人格が含まれている」と表現できると思うし、
それと同時に、「人格を構成する要素の一つに能力が含まれている」と言うことも妥当だと思われます。
両者の属性は不可分というか、境界線があいまいだと思います。
そして、その個人が属している役職、立場、場面などによってどのような人格、能力特性が求められるのか変わってくると思いますし、
評価基準が変われば、人格、能力の評価も容易に反転するんじゃないかと思います。
フランス皇帝だったナポレオンって、恐らく議論の余地なしに能力が高い人物だったと言えると思います。
しかし、人格的には癇癪もちで、自己主張が強く、我が道を行く唯我独尊的な性格だったようです。
あと、音楽家のワーグナーって音楽に関しては間違いなく天才なんでしょうけど、
借金踏み倒して夜逃げしたり、不倫したり、気に入らないと周りに怒鳴り散らしたり、こちらもかなりやりたい放題の
性格だったようです。
人格が破綻した偉人って結構よく聞くステレオタイプだと思います。
そしてそれは実際にそうであるパターンも多いと思う。
よく言われる説明では、その偉人や天才から生まれる熱意や集中力をフォーカスするベクトルが、
一般的常識からあまりにも外れてしまっているので、一般常識的な人たちと比べて
優先している物事の順位がズレてしまっているからくる行動特性と言われますね。
「自分がやりたいことをやるために、障害になるなら一般常識を踏み外すことも厭わない」
ということを意識的にも無意識的にも、実際に行動に移してしまうのでしょうね。
何かしらのクリエイターとか、有名人とかで、
「ファンとしてコンテンツや行動や表現を楽しむのは良いけど、実際にその人の部下になって働くとか、友達になるような距離感は嫌」
みたいなパターンもかなりあるんじゃないかと思います。
あるお笑い芸人のネタとかおしゃべりを見るのは楽しいけど、実際に友達になるのは無理な性格とか、
その人の有能さと仕事の成果に関しては高く評価しているけど、部下になって一緒に働くのはキツイ性格とか、
後者のパターンだと、スティーブ・ジョブズとか、イーロン・マスクとかそういうタイプの人物なんじゃないかって
思いますね。
気配りができるかどうかは、先天的に得意な人もいるし、
元々不得意な人も後天的に身に着けることが出来る技術だということも本当のことだと思います。
どちらも大事だということは前提の上で、教育においては人柄の養成を重視した方がいいと感じます
能力とは選択の自由。気遣い・気配り等の「OFF」ができないのは、能力の欠如の一種。人柄は能力の範疇?
「能力は必要に応じて世への供給量を何とかできる」と言うのは例えば、
視力が悪い人が眼鏡をかけて視力不足を補うとか、足が悪い人でも動けるように車いすを使うとか、バリアフリーの施設を作る、
などは含まれるのでしょうか?道具やシステムで能力を補うことはできると思います。
あとは車や飛行機に乗って別の場所に移動することも可能です。しかし、車や飛行機には燃料が必要だし、電気自動車にもそれらに電気を補充するための
機器やそれを構成する部品やサプライチェーンの状態、人間を取り巻くシステムそれ自体の能力などによってある程度の制約は受けると思います。
「変えられない人柄の供給量を何とかしようと無駄な資源を費やす」と言う表現がもし私に対する批判として言われたのならば、
確かにその通りだと思いますと、同意する部分もあります。
ただ私は人類の人柄を変えようとするだけではなく、どちらかと言うと文化を変えたかった面が強いのです。
ならば、スレッドルートのお題のひとつ
「既存の教育に違和感を覚える人もいるが、果たしてそれは正しい違和感なのかそうでないのか...これからの社会に期待する我々だが、どのように発展してくか・何故それが必要なのか」
についての私の答えが定まってしまいますね。
そんなの、次世代の勝手。
現世代の知ったことかぁ!
逆に言えば、次世代が勝手できなくなるような教育に、違和感を持たねば。
それは教育ではなく、洗脳と呼ぶべきもの。
例えば…。
具体例がパッと浮かばないところに、論理の弱さを我ながら感じます。
しかも、教育を受けた世代だからといって、教えられたことをやる義理なんざありません。
教えられたことをやらざるを得ない、洗脳とは違うのです。
だから、教育によって社会や文化が変わるか、変わるとして教育した世代の意図に反して世紀末覇者ヒャッハーなのに変わるのか、意図を踏み越えた素晴らしいものを生むのか、教育した世代の知る所ではありません。
俺の屍を越えていけ!
あるいは教育には、
1967年のルイ・アームストロングの楽曲「What a Wonderful World」
「They'll learn much more than I'll ever know」
Lisp:S式の理由
https://practical-scheme.net/wiliki/wiliki.cgi?Lisp%3AS%E5%BC%8F%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1
「Lisp設計者は、自分より言語ユーザの方が、そして現在のユーザより未来のユーザの方が、 賢いと考えている」
現世代よりも次世代の判断を信頼する覚悟が必要かと。
そうでなければ、オウム真理教とかの洗脳を笑えないので。
含まれると思いますが、それを教育で? といえばちがうのではと。
教育で与えるものとは、教育という行為によって殖やせるものでなければならないかと。
知識や技術、心構えや物語とか。
眼鏡の作り方や車椅子の操作方法やバリアフリー設計は教育で与えても。
眼鏡や車椅子やバリアフリー施設を与えるのは、教育の範疇を越える気がします。
そういう意味では、叔父叔母コメントで私の書いた社会設計・構築も、設計は教育で与えられても、構築まではできないかと。
それをやるのは、教育する世代ではなく、教育を受けた世代であり。
魚を与えるのではなく釣り方を教えよ、ということなのですね。
変身の場所を若干間違えました。
よく考えると「気遣い・気配りできる人」って、いつもやってる。
「あの人は気配りできる人だけど、昼休み中は気配りしてない。」とか。
「ジギル博士とハイド氏」みたく「昼と夜で人柄ちがうんで。」という人の人柄を、人柄と呼ぶだろうか?
能力が、本人の恣意で選べる範囲、と。
人柄とは、決して変わらない本人の性質、と定義するならば。
定義により、教育ごときで変えれる、伸ばせるものを人柄とは言えない。
だから、論題に照らすなら、教育で伸ばすべきは人柄ではなく能力一択。
逆に言えば、能力なんて教育で必要に応じて世への供給量を何とでもなるのであり。
必要に関係なく供給量の限られる「人柄」が、必要なまま不足した状態なのはよくあること。
つまり、論題に照らすなら、必要なのは能力ではなく人柄の場合が多い。
勿論、それでも我々の取るべき選択肢は、変えられない人柄の供給量を何とかしようと無駄な資源を費やすことではない。
ハイド氏だらけでも回る社会の設計構築の方がマシだろう。
その設計では、より多くの能力が必要ならば、それを贖える教育をすれば良いし出来るはず。
平和な日常で一昼夜ごときで変わるのは「人柄」と呼べないだろうが。
戦争に逝って還って来るとか。
大切な人の命の危機に臨んで腹を括るとかで、一瞬にして。
ガラッと人柄が変わる話はあるよね。
やっぱり、教育ごときでは無理。
魚を与えるのではなく釣り方を教えよ、ということなのですね。
ならば、スレッドルートのお題のひとつ
「既存の教育に違和感を覚える人もいるが、果たしてそれは正しい違和感なのかそうでないのか...これからの社会に期待する我々だが、どのように発展してくか・何故それが必要なのか」
についての私の答えが定まってしまいますね。
そんなの、次世代の勝手。
現世代の知ったことかぁ!
逆に言えば、次世代が勝手できなくなるような教育に、違和感を持たねば。
それは教育ではなく、洗脳と呼ぶべきもの。
例えば…。
具体例がパッと浮かばないところに、論理の弱さを我ながら感じます。
平和な日常で一昼夜ごときで変わるのは「人柄」と呼べないだろうが。
戦争に逝って還って来るとか。
大切な人の命の危機に臨んで腹を括るとかで、一瞬にして。
ガラッと人柄が変わる話はあるよね。
やっぱり、教育ごときでは無理。
しかも、教育を受けた世代だからといって、教えられたことをやる義理なんざありません。
教えられたことをやらざるを得ない、洗脳とは違うのです。
だから、教育によって社会や文化が変わるか、変わるとして教育した世代の意図に反して世紀末覇者ヒャッハーなのに変わるのか、意図を踏み越えた素晴らしいものを生むのか、教育した世代の知る所ではありません。
俺の屍を越えていけ!
あるいは教育には、
1967年のルイ・アームストロングの楽曲「What a Wonderful World」
「They'll learn much more than I'll ever know」
Lisp:S式の理由
https://practical-scheme.net/wiliki/wiliki.cgi?Lisp%3AS%E5%BC%8F%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1
「Lisp設計者は、自分より言語ユーザの方が、そして現在のユーザより未来のユーザの方が、 賢いと考えている」
現世代よりも次世代の判断を信頼する覚悟が必要かと。
そうでなければ、オウム真理教とかの洗脳を笑えないので。
含まれると思いますが、それを教育で? といえばちがうのではと。
教育で与えるものとは、教育という行為によって殖やせるものでなければならないかと。
知識や技術、心構えや物語とか。
眼鏡の作り方や車椅子の操作方法やバリアフリー設計は教育で与えても。
眼鏡や車椅子やバリアフリー施設を与えるのは、教育の範疇を越える気がします。
そういう意味では、叔父叔母コメントで私の書いた社会設計・構築も、設計は教育で与えられても、構築まではできないかと。
それをやるのは、教育する世代ではなく、教育を受けた世代であり。
変身の場所を若干間違えました。
「能力は必要に応じて世への供給量を何とかできる」と言うのは例えば、
視力が悪い人が眼鏡をかけて視力不足を補うとか、足が悪い人でも動けるように車いすを使うとか、バリアフリーの施設を作る、
などは含まれるのでしょうか?道具やシステムで能力を補うことはできると思います。
あとは車や飛行機に乗って別の場所に移動することも可能です。しかし、車や飛行機には燃料が必要だし、電気自動車にもそれらに電気を補充するための
機器やそれを構成する部品やサプライチェーンの状態、人間を取り巻くシステムそれ自体の能力などによってある程度の制約は受けると思います。
「変えられない人柄の供給量を何とかしようと無駄な資源を費やす」と言う表現がもし私に対する批判として言われたのならば、
確かにその通りだと思いますと、同意する部分もあります。
ただ私は人類の人柄を変えようとするだけではなく、どちらかと言うと文化を変えたかった面が強いのです。
よく考えると「気遣い・気配りできる人」って、いつもやってる。
「あの人は気配りできる人だけど、昼休み中は気配りしてない。」とか。
「ジギル博士とハイド氏」みたく「昼と夜で人柄ちがうんで。」という人の人柄を、人柄と呼ぶだろうか?
能力が、本人の恣意で選べる範囲、と。
人柄とは、決して変わらない本人の性質、と定義するならば。
定義により、教育ごときで変えれる、伸ばせるものを人柄とは言えない。
だから、論題に照らすなら、教育で伸ばすべきは人柄ではなく能力一択。
逆に言えば、能力なんて教育で必要に応じて世への供給量を何とでもなるのであり。
必要に関係なく供給量の限られる「人柄」が、必要なまま不足した状態なのはよくあること。
つまり、論題に照らすなら、必要なのは能力ではなく人柄の場合が多い。
勿論、それでも我々の取るべき選択肢は、変えられない人柄の供給量を何とかしようと無駄な資源を費やすことではない。
ハイド氏だらけでも回る社会の設計構築の方がマシだろう。
その設計では、より多くの能力が必要ならば、それを贖える教育をすれば良いし出来るはず。
能力とは選択の自由。気遣い・気配り等の「OFF」ができないのは、能力の欠如の一種。人柄は能力の範疇?
どちらも大事だということは前提の上で、教育においては人柄の養成を重視した方がいいと感じます
気配りができるかどうかは、先天的に得意な人もいるし、
元々不得意な人も後天的に身に着けることが出来る技術だということも本当のことだと思います。
何かしらのクリエイターとか、有名人とかで、
「ファンとしてコンテンツや行動や表現を楽しむのは良いけど、実際にその人の部下になって働くとか、友達になるような距離感は嫌」
みたいなパターンもかなりあるんじゃないかと思います。
あるお笑い芸人のネタとかおしゃべりを見るのは楽しいけど、実際に友達になるのは無理な性格とか、
その人の有能さと仕事の成果に関しては高く評価しているけど、部下になって一緒に働くのはキツイ性格とか、
後者のパターンだと、スティーブ・ジョブズとか、イーロン・マスクとかそういうタイプの人物なんじゃないかって
思いますね。
フランス皇帝だったナポレオンって、恐らく議論の余地なしに能力が高い人物だったと言えると思います。
しかし、人格的には癇癪もちで、自己主張が強く、我が道を行く唯我独尊的な性格だったようです。
あと、音楽家のワーグナーって音楽に関しては間違いなく天才なんでしょうけど、
借金踏み倒して夜逃げしたり、不倫したり、気に入らないと周りに怒鳴り散らしたり、こちらもかなりやりたい放題の
性格だったようです。
人格が破綻した偉人って結構よく聞くステレオタイプだと思います。
そしてそれは実際にそうであるパターンも多いと思う。
よく言われる説明では、その偉人や天才から生まれる熱意や集中力をフォーカスするベクトルが、
一般的常識からあまりにも外れてしまっているので、一般常識的な人たちと比べて
優先している物事の順位がズレてしまっているからくる行動特性と言われますね。
「自分がやりたいことをやるために、障害になるなら一般常識を踏み外すことも厭わない」
ということを意識的にも無意識的にも、実際に行動に移してしまうのでしょうね。
逆に、これは結構イメージで語るんですけど、カウンセラー/セラピストといった仕事は
一般的に言うところの「優しい人」が適性がある仕事なのだと思う。
認知的/情緒的、どちらの共感能力も求められていると思うし、
こちらは特に仕事に関して患者さんに対し「キツイことを言う」ということは、
状況にもよるでしょうけど求められることは少ないでしょうし、
優しくない人には務まりにくい仕事なんじゃないかと思う。
このように考えると、「能力を構成する要素の一つに人格が含まれている」と表現できると思うし、
それと同時に、「人格を構成する要素の一つに能力が含まれている」と言うことも妥当だと思われます。
両者の属性は不可分というか、境界線があいまいだと思います。
そして、その個人が属している役職、立場、場面などによってどのような人格、能力特性が求められるのか変わってくると思いますし、
評価基準が変われば、人格、能力の評価も容易に反転するんじゃないかと思います。
よく聞く例として「看護師は性格がキツイ人が多い」って話が出るんですけど、
実際医療関係従事者の人たちの話を聞いていると、もちろん個人差もあると思いますが、
実際に性格がキツイ人が多い傾向があると言われることが多いですね。
ただ、これはよく考えてみると不自然なことではないと思います。
看護師の仕事ってちょっとしたミスで患者さんの命に関わるような事態が発生してしまう可能性もあるし、
それだけ緊張感を持った環境で仕事をしていたら、誰だってピリピリするのは自然なことだと思います。
そして、現場の緊張感を高めるためには同僚や上司部下の関係において、他者に厳しい指摘を
したり、されたり、言いたくはないけど言わなきゃいけないことを言ったり、言われたりしなきゃ
いけない環境で仕事をしているわけですから、ある程度キツイ性格特性を持った人や、
元々そうではなかったけど、仕事に従事していくうちにそのような性格になってしまった人たちが
適応しやすい環境なんだと思います。優しい人には務めるのが難しいのだと思う。
返信用です。